『藤井博「もの」と「意味」の間で』 戸谷成雄
私が、藤井博の仕事を、初めて見たのは何かの雑誌の上だった、と記憶している。鉛のインゴットと生肉がコンクリートの床の上に、整然と並んでおり不穏な空気を遭わせていた。その後も、雑誌等で何度か驚きを持って名古屋の地から見ていた。作品との直の出会いは、1975年10月、田村画廊であった。私が家族と共に所沢に越して来たのが10月なのだから、引っ越してすぐに、見に行ったことがわかる。《交差》・《・・・物的なIII》今資料を見るとこのシリーズの最後の作品である。以後10年間はときわ画廊を中心に発表された、シリーズ《内へ・外へ》を見てきた。
私は、1975年までの初期作品が好きだ。もし「もの派」と言うものがあるとするなら、藤井博はその思考の中心的課題を真摯に担ってきた人だと思う。私は、批評家ではないから、それを論理的に証明する藤井博論は書けない。以下に記す拙文は、主に初期の作品を見ながら、藤井博の物質、物体、身体、空間、境界、場、関係とそれらの概念化について思いを馳せたものである。作品が思考を要求してくるのだ。
物質と物体が分離したのは何時頃のことだろう。物体の内部は物質によって充満している、物質は形を持たないが物体の概念が物質に肉体を与える。それ自身見ることができないにもかかわらずその存在を物体の現われによって示すものは、光に喩えることができよう。内部に物質という光を宿した物体は、分裂を繰り返し、影となる。影はイメージの共通感覚を呼び覚まし、言語化した意味としての物体を再生産する。
岩山は岩へ、石へ、砂利へ、砂へ、粉へと概念変換し、その物質性を保持しながら意味の境界をつくる。しかし、その形状的境は連続的であり曖昧で確定不可能である。にもかかわらず一定の共通感覚を得て、名付け、落ち着く。
石が石斧に概念変化するのは、その道具性を見いだすことであり、道具性は次々と発見され意味化した物体となる。意味化とは型にはめることだ。型は形式となり制度となる。それはまた、感嘆詞が指示性を強め名詞へと変化することと似ている。
流動体はそれ自身形態を保ち得ないからこそ特に型を欲する。鉛は低温融解し柔らかいから簡単に形を変えることができる。型に流され固体化したインゴットは形態化を待つ中間的形態であり夢みる物質である。インゴットはとりあえず金属に与えられた名前であり、思春期の少年のように不穏な欲望のかたまりだ。それは次なる型を欲する重力として空間を支えている。
緑の牧草が動物の体内で赤い血と肉となるのは、なんとも不思議だが、それぞれの動物の特徴を持った形態へと形成されるのは、型を遺伝子として持っているからだろう。型から取り出され、形式としての肉屋からも冷蔵庫からも取り出され、鉛のインゴットと交互に整然と並値された肉は、一瞬名付けようもない物体となる。しかしその物体は「もの自体」なのだろうか。視線は肉、鉛、肉、鉛と反復的経験をする。この時差を持った経験は重層的であり意味を宙づりにする。しかし、瞬く間に視線は肉自身の意味を取り戻す。空間の中で、文化的記憶を保持し続けたまま「これは肉ではない」と言い続けることができるだろうか。不可能だ。宙づりの意味を、再想起可能な物体へと移行させるには、どうすればよいのか。
ものの持つ通常の意味を「かっこ」に括り解放した時に現われてくるものは、ものの影として空間と関係し、それは、「場」の緊張を強いる。戦場に散乱する肉片は、本来あるべき身体を持っていない。身体の影としての「肉片」となり感嘆詞を生み、やがて忘却される。金属と肉は、戦場で交接するが「場」の緊張は持続しない。
人に緊張を強いるのは、「もの」と「意味」の交接する「場」であるはずだ。概念は、しらずしらずの内に形成され、共通の幻想を生み出す。この幻想から逃れる方法が「芸術」なのかもしれない。身体と知覚を鋭敏に研ぎすますことで、この幻想から逃れることができるだろうか。要は、「もの」と「意味」の間に自己を差し込み、両者の間に自己を解放すると同時に、もう一つの「私」を見出すことだ。
まず「私」は身体から始まる。母の肉に包まれた肉として、接触する皮膚として生ゴムのような乳首を吸い込む唇として。皮膚は内と外とを分離し接続する境界の物質であり、生ゴムのように伸び縮みする物体の表面としてと同時に意識の表面を形成する。意識も内と外の間で分離と接続を繰り返す中で、自我が生まれる。
自我は身体として存在の場を要求するがそこには他者がすでに陣取っているため場を獲得するためには、和解するか、戦うしかない。赤ん坊は、はじめ戦うがそのうち和解する。少年も然り。まず衣服をまとわなくてはならない、皮膚は布と和解して洋服の鋳型になり、次第にその拘束性を忘れる。身体の生ゴムのような重力はあらゆる物質と接触し、その限界と重みを知る。肘掛け椅子の肘は鋳型としてはたらき、重力としての皮膚を鋳造し、交差させ密着し引っ張り合う両の手は、交差する幅の間で引っ張りながら突っ張るという矛盾した主体として、事の主客を混乱させる。互いが互いの鋳型となり、熱せられたまま型から外れることはできない。
空間は物体の鋳型であるが、物体も空間を限定し変形させる。そこに現われる場と同時に身体も空間に縛られ、固定化される。身体は固定化された空間と場所から逃れようとする。物質にまみれた「私」が、場を逃れようとして空中へジャンプしても物質は、その身体の記憶を残す。記憶とは、影のメタファーであり、不在の身体の行方を探す。物質が影として表象したものは、何か、「私」は私の影と向き合うが、今ここの影を見る私の足裏の影を誰が見るのか。仏足石は、足裏を上にして地下に向かって立っているが、「私」は依然として、この地上に立っている。それがいかに限定された小さな場であるかを知る。
小さな「私」の場を、拡張しよう、とすると、逆に場を小さくせざるを得ない。限定された小さな場を破壊し四方八方に陣地を拡大したかに見えた時、その行為は予期せぬ事態に至る。獲得した場が結局限定された小さな場のネガでしかなかった、という事態に。限定された場に対する怒りとは、縮小する「私」を、蹴り倒そうとする「私」の意志なのだが、小さな場も失い宙吊りになる。行為と結果はずれるのであり、時には逆転した事故を起こす。
事故はなんらかが、なんらかと関係、接触した時に起こる。関係こそ恐ろしい。身体は、あらゆる物と事に、関係する。事故が起こるのは、人間が関わる時であり、自然の中で起こる事は、自然現象である。が、ここで起こる事故も現象であるのか、帯状生ゴムの上に撒かれたセメント粉、両者の物質特性の反発とズレが起こす表面のひび割れは、現象であるが両者の物質性は保持したままである。ゴムが強く張られればひび割れは大きくなる。関係は現象として現われるが、ひび割れのわずかな隙間から現われた生ゴムは「自体」性を帯びる。「自体」は「関係」を拒否するものの喩えだ。「自体」は「関係」によって顕在するのであって、それ自身では現われ得ないにもかかわらず、関係を嫌うのだ。そして、意味を求める。意味を得た瞬間「自体」性は失われ「関係」に戻ってしまう。この無限の反復連鎖を断ち切るには、文字どおり、この割れ目にカッターナイフを差し込み、場の弾けを記憶するか、反復想起を可能にする別次元の制作実験に取りかかるかだが、重力と空間の試行は、まだ続く。
あらゆる物体は、重力に支配される。だから支配に抵抗しようとする場には緊張が生まれる。突っ張りと引っ張りもそのようなものであり、力の均衡が崩れると、一方の力の支配が露呈し緊張は流失する。崩壊寸前の美しさと危うさは、バロック的とも言える。見えるものは、生ゴムに括られ天井から吊り下げられた大小の石と、それを支え生ゴムに連結された天井の鉄パイプと。床一面のセメント粉だが、見えない重力が空間に振動を与える。経験から想起へそして共振へ。ここにも「自体」は現われるが見えない空間の振動もまたその意味を求め、関係へと逆戻りする。
「自体」を反復想起させ、そこに在り続けるもの、「意味」の手前で関係にも、ものにも回収されず、境界に立ちつくす物体とは何か。個と共同はこの「自体」と「意味」に相応していたのではないか、エネルギーは、あくまで個の内部に満ちており、他者との関係においても失われない、しかし、他者の力は理不尽なまでに矯正を強い、関係を強要する。関係は、愛や恨みや妬みや崇高が絶対的であるという観念を生み出すと同時に、物語を産出する。物語が、いかに不穏な「自体」を「意味」として、個を関係の糸で絡めようと、個は重力を維持し、あくまで、これは関係にすぎないと、主張しようとする。個と共同は、相反する力の構造であり、倒立した観念の構造でもある。構造のバランスは、必ず崩れる。
藤井博の《内へ・外へ》へと至る実験は、まだ続くが、初期作品に導かれての私の思考実験は、このくらいにしよう。最後に《内へ・外へ》について、若干ふれておきたい。
物体は不透明であり、その内部を見ることは不可能である。物が外部関係から逃れるには、その内部に構造を持つしかない。どのような構造を持つかによって、表面が決定されるが、物の内部にあらかじめ構造を作ることはできない。そこで、表面を作ることによって内部に構造を与えるのだ。見る者は表面から内部構造を知る、いや感じる。表面は、外部から力を加えられるが、それは視線の力が内部の不可視性を侵犯し、その隙間に身体を差し込もうとする意志なのだ。布としての身体は、視線の力に導かれ内部を駆けめぐることができるのか。視線の観念的透過性に対し、布の物理的不透過性は一方の表面へ、反射せざるを得ない。藤井博が布という物質に視線という非物質を代替えさせながら、内部構造を構築せず、表面へとはじき返されたことの意味は、何か。この物体としての平たい布は、内へ向かいながら、物理的に透過不可能なのだ。身体としての視線は、観念的に越えることはできるが、物理的には越えられない。それは反射し振動する表面の構造となる。内部を断念した布は、とまどいながら表面を覆う。問題は、この構造が、平面へと解体され、再構成されるなら、キュビズム以後の歴史を再びたどることになるということだ。私は、問題を共有していたが故に、80年代初期、氏にその危惧を語ったことを覚えている。ものと意味の間に身体を差し込みながら、そのまま突っ走る藤井博を見てみたかった。それは、彫刻に囚われた私にはできないことだったからだ。
今、実見できなかったその後の作品の資料を見て、私の危惧は的外れであり、氏もまた、絵画の自明性を「かっこ」にくくり、絵画の外を志向しながらもなお「絵画」の囚われ人であることを知った。そして、その「絵画」は今、「もう一つの絵画」として現前している。
2005年1月24日 (とや しげお/彫刻家)