「日本現代美術のクラストコア」 高石 晃
死に損ないの傷跡が鏡に映り
蹴落として殺した恋の魂の群れがついてくる
「幽閉者/テロリスト」足立正生
1970年の生肉
まず、第1期と呼ばれる、70年代の藤井博の作品を見ていきたい。この時期の藤井作品はざっくりポストミニマリズムといえばいいのか、様々な物を造形的な操作をほとんど行わずに即物的に展示した作品だ。その傾向の作品は日本ではもの派が支配的な勢力としてあり、藤井も、もの派ではないが、その周辺にいた作家であるとみなされている。
ほぼ同時期に、もの派の中心的作家である李禹煥は藤井と近似した形式の作品を制作していた。李の掲げていたテーマは「出会い」というもので、日常見ているガラス、石、鉄、綿などの「もの」の既成概念を取り払うことで、「あるがままの世界の自然なありよう」に出会う場所としての作品を制作した。李は石の石らしさや鉄の鉄らしさなど、属性の特徴を純化し、複数の素材の特徴を阻害し合わない形で関係づけることで、日本の禅寺の庭のように、人工的でありながら自然の中にいるような心地よい緊張感と静かな透明感を感じる場として作品を作りだした。
対して、藤井は最初期の作品から、生肉という文字どおり生々しい素材を使っている。李禹煥をはじめとするもの派の作品では、強度のない素材であっても綿や蝋、紙など非常に静的なものであったので、このようにすぐに変質していってしまう生きたマテリアルと使うことはなかった《「波動」1》では多数の肉が鉛のインゴットがグリッド状に対置されることで、肉の質感が、自然さというよりも、グロテクスなものとして顕われている。展示中は肉が腐敗し悪臭を放ったそうで、静的な鉛との対比がより強く露呈していた筈である。また、都市の路上に直線状に生肉を置いていくハプニング的な作品を見れば、日常空間に対しての異化作用として、物質の質感を、異質なものとして表出することが意図されていたことがわかる。
石を使った作品においても、石は粒子状になるまで徹底的に破砕され、うっすらと壁に付着させられることで、もはや石と判別できない状態となっている。それを見た人はそれまで持っていた石という概念の変更を余儀なくされるだろう。ここには日常における石のありかた=既成概念を剥ぎ取ることはもちろんのこと、「石とはなにか」という一般概念自体を混乱させようという意図があったといえる。
藤井作品においても事物との出会いは図られていたが、それはある意味でもの派の諸作品より徹底したものであり、なによりも、それは心地よい瞑想的なものではなく、おぞましく、破壊的なものだった。人間にとっては、物を概念=言語の媒介なしに知覚することは通常、ありえない。そのため藤井は物の持っている属性を過剰に表出させ、それを消尽させることで、見る人の認識を混乱させ、概念=言語の働きを攻撃することで物との直接的な出会いを期していた。
石村実による卓抜な藤井博論*1(上記の論旨も石村の論に依っている)によれば、藤井作品において目指されているのは「ものの意味の混乱した状態」であり、その状態とは「物の世界」と「心的な領域の世界」が重なり合う、いわば「無意識の言語の世界」であったとされている。
裂傷では、その「無意識の言語の世界」があるとして、それはどのようなものなのだろう?
そこでは、物の意味、つまり物と言葉とのつながりが混乱している以上、物とその他の物の区別は曖昧なものとなる。言語の働きが通常のものでないため、A=Aのような自同律すら失調するだろう。自−他の境界すら維持することができないため、感覚することがすなわち対象を破壊し、感覚する主体もまたそれによって絶えず再構成されざるをえない。
まさに混乱した状態であるが、ここにおいてしか人は裸形の物=現実と接触することはできない。このような状況は当然、形式化、固定化することはできない。70年代の藤井の作品が、イベント、パフォーマンスのような形態を多く取っていたのは、その状況を安定した作品の形式にすることが困難であったためだといえるだろう。
果たしてどの程度、その狙いが完遂されたか?それは検証不能である。そもそもパフォーマンスという形式自体、原理的に観客それぞれの経験が一致することがありえず、むしろそのイベントが歴史として語られることで作品としての実体を確保していくものだといえるが、藤井が目指していたのは、より根源的な意味で共有不能であり、ひとりの人間のなかでも不連続なものにならざるを得ない経験であった。その経験はわれわれにとってはいわば、知覚に一瞬走った亀裂のようなものとしてしかありえないだろう。われわれの知覚の表皮が切り裂かれ、その下の肉=「裸形の物」が現れる。表面の保護膜と内部組織、そして外部がクラッシュしたその状態、まるで裂傷のような状態こそが、70年代の藤井作品の志向していたものである。
そして、ここが大事なところなのだが、ある体験がもしわれわれの心的な領域に対して亀裂のように作用したのなら、それはショックとしてあって、ショックの渦中ではそれを認識することはできない。事後的にしか対象化できず、しかも、そのショックが認識する主体に不可逆的な影響を与えているので、そのショックの把握は想像的に構成されたものにしかならない。これがすなわち心的な領域における外傷(トラウマ)というもののあり方だ。
混乱したショック状態としての「裂傷」は、われわれの認知においては「外傷」としてある。この二つにはミニマムなものであっても時間的なズレが生じている。このズレこそが、80年代から藤井が造形的な作品に着手した理由の一つであると私は考える。造形とは、構成を行う知覚とその構成物を見る知覚のズレを問題化する表現形式であるからだ。
瘡蓋
そもそも、裂傷としてのものとの出会い−破壊的な対象関係は、なにも極端におぞましい物質に感覚を晒さなくても、実は常に、われわれの知覚に起こっている。網膜からくる生理的な信号(電気的パルス−ミニマムなショック)を概念によって分節することによってわれわれの視覚は構成されているが、後期ジャコメッティの絵画をみればわかるように、空間概念上の分節を厳密に行えば行うほど、対象は破壊されてしまう。
一片の木材を凝視すれば、そこに無数の亀裂がはいる。木材は無限に分割されうるし、木材の単体という対象が維持できない以上、木材と周囲の空間との区別も行うことができない。その知覚でもって造形をおこなえば、単体・集合・内部・外部という区別の消失した、亀裂が相互に貫入する構成体が出現するだろう。
81年以降の藤井作品は、複数の角材に徹底的に切れ込みが入れられ、また布の帯がその亀裂に差し込まれ、他の亀裂に挿し渡され、ユニットを形成しつつも、細かい切片が無造作に撒き散らされている。先ほどの傷の比喩を引き続き使用するならば、まるで裂傷によって弾け飛んだ肉のようだということもできるだろう。しかしそれらは、第1期の作品のように、見る人に直接ショック=知覚の裂傷をあたえるものではない。問題となっている知覚体験が本質的な意味で共有不可能な以上、基本的にはそれらは作者の行為の痕跡としてある。それまでの作品の直接性と比べて、間接的な行為へとむかう大きな転回があったといっていいだろう。その意味ではそれらは既に、われわれの身体から離れ、死んだ肉なのだ。
その後、その構成は着彩された一面をとば口として、部屋全体への拡散が弱められ、徐々に平面に凝縮されていく。1990年の展示「ためられる時間・空間質」ではほぼレリーフや絵画といっていいものとなるが、重要なのは、ここでは、表と裏ができる、ということだ。
ベニヤ板の表面全体に苛烈に傷がつけられ、切れ込みを通して、表と裏に布が行き渡らせられている。そこでは、構成が薄い皮膜のようなものを形成している。支持体の表面ではなく、切れ込み、布などの行為自体がもうひとつ別の形の皮膜を形成しているのだ。あえて裏側をみせている作品があることからも、そのごく薄い構成体を見せようとしていたのは明らかだ。立体的な構成においては、内部、外部の区分が問題とされてきたが、それが平面に凝固することで、表と裏という区分に移行している。その融解される区分が皮膜状になることで、より凝縮された形で開示されているといえるだろう。
これをみて私はまるでカサブタみたいだな、と思う。破裂した身体、撒き散らされていた死んだ肉が薄い層に凝固していく。一見ゴツゴツとした、汚らしい塊だが、無数の細胞の死、傷の集積であり、その背後にはまだ生々しい傷口、肉が疼いている。
その背後とは?先ほども見たように裏から表から、構成がされている以上、単純な意味での絵の裏ではありえない。あくまで構成された皮膜、その想像上の背後にあるのだ。
安定したインターフェースとしての皮膚ではなく、露呈した肉を保護する硬化した皮膜、緊急的に作り出された外殻。そのような瘡蓋としての絵画。第二期と呼ばれる80年代の藤井作品はこれを作り出したと言っていい。
1990年のクラストコア
我々の知覚の表面に開いた裂傷、そこにおいて我々は肉=現実にもっとも接近する。しかし、知覚はそのショックに耐えられず、その内部組織を外に撒き散らす。やがて表面は蘇生をおこない、傷口には醜く固まった瘡蓋が形成されるだろう。さてその後、瘡蓋はどのような運命をたどるか?やがて外部に排出されるであろう。
皮肉にも、なのか当然の帰結なのか、藤井の作品は日本の美術史の内部に正当に位置付けられているとは言い難い。2006年に刊行された作品集の副題は「現代・美術の外部性」である。しかし、仮にそうだとしても、それは単に美術にとってアウトサイダーであるということではない。
藤井はもの派に対する批判を隠さないが、それは彼らが事物そのものを扱わず、本来外傷的な経験であるはずの、事物との直接的な出会いを「自然」という共同体の物語によって誤魔化していると考えるからだ。そしてパフォーマンス、ハプニング的な表現のあり方にもそれにつきまとう歴史化、物語化への抵抗からか安住することなく、より困難な、不可能性を抱えた表現へとむかっていった。ある種の否定性、表象への拒否が藤井の作家性を形成しているが、それは倫理的に、また美学的に選びとられた物だ。
その実践は同時代の作家とくらべてもクリティカルなものであり、美術という身体の輪郭を切り裂いたものであった。藤井作品は日本現代美術の中核ハードコアではなく、内部と外部の境界に形成された硬質な皮膜、瘡蓋の芯クラストコアを形成している。
2018年の風景
この文章はスペース23℃の展示、「わたしの穴21世紀の瘡蓋」のために書かれた。藤井作品を今、展示することでわれわれは何をしようとしているのか。
藤井の初期のハプニング的作品が、日常風景への異化作用という面をもっていたことをもう一度思い出そう。生肉がゲリラ的に六本木の街角や、東京駅の前、打ち捨てられた米軍基地の滑走路などに置かれる。一条の肉の線はまるで都市風景に走った切り傷のようだ。もし、かれの開けようとした傷が、われわれの知覚上だけのものでなく、美術の輪郭、われわれの社会、歴史という身体の上につけられたものであるとしたら。われわれは、傷口は今どこにあるのか?と問うてみる必要がある。
そもそも、藤井がそこまでこだわった、事物への接近にはどのような時代的な意味があったのだろう。写真家の中平卓馬は1973年にこう書いている。「文学、美術をはじめ、あらゆるジャンルで今、さまざまな形で芸術の形式そのものが問い直されている」。「彼らは彼らの行為を通して事物と私、またその二つがせめぎあう世界の構造を明示しようと努める」*2。この次元においては、もの派も、多かれ少なかれ同じ志向を共有していたし、中平自身も、写真を通して事物そのものに接近しようとした。
そして中平にとってはその傾倒は、映画表現から発生し、1970年前後に広く注目を集め、中平も影響を受けた「風景論」の発展形であった。ざっくりといえば風景論とは、都市の風景が均質化していく状況において、そこに権力の遍在化を見出し、それを突破しようと試みた、権力批判としての表現論である。中平は1971年の段階でこう書く。「風景論から物質論へ」、「風景をそれを構成する物質という因子にまで解体する必要を感じる」*3。それは、それまでの自分の言説が、「風景論が本来的にたっていた対権力論の軸をわずかでもずらす結果をしか産まなかった」ことに対する、自己批判としての発展であった。中平の実践は徹底して写真という媒体特有のものだったが、同時期の美術や文学に共通した問題設定を見出していたことは見逃せない。もの派の作家が物質ではなく、括弧つきの「もの」をあつかったのであれば、藤井の実践は、その事物への接近の徹底性、また批判性において、中平の問題意識により近いということも可能だろう。そのような事物への傾倒という実践において、ある者は洗練された成果を得、またある者はそうでなかっただろう。しかし、もの派が「もう一つの近代」という形で国際的な権威の中に包摂されようとしている現在を見回してみれば、それらも結局は、「起点における<権力論>としての意味をば、危うくも喪失しようとしていたのである」*4と、またしても言わなければならないのではないか?
藤井が1970年につけた傷、それは1990年には瘡蓋となった。それが暗示していた美術の輪郭、身体はいまどこにあるのだろうか?傷口は完全に治癒し、瘡蓋はどこかに剥がれ落ちてしまったのだろうか?
であるならば、その瘡蓋、硬い塊を現在の美術のつるりとした表面にもう一度ぶつけてやる。「なにを隠そう、ぼくはこの完璧な『風景』にたった一条のひび割れの可能性をもった弱い溝でもありはしないかとかぎまわっている貧相な犬である」*5。
- *1 石村実「藤井博-もの・言葉・時間-」『美術手帖』2009年9月
- *2 中平卓馬「なぜ、植物図鑑か」1973年(中平卓馬『見続ける涯に火が…』OSIRIS 、2007年 所収 308頁)
- *3 中平卓馬「イメージからの脱出」1971年(中平前掲書163頁)
- *4 松田政男「風景論の起点」1971年(松田政男『風景の死滅』航思社、2013年 所収307頁)
- *5 中平卓馬「風景への叛乱」1970年(中平前掲書131頁)
- (たかいし あきら/アーティスト)