TEXT BY NATSUYUKI NAKANISHI

「藤井博の作品をなぞり復習して」中西夏之

ここに来て、地面に眼を遣ると数知れない鉛の塊と肉の塊が横たわっている。散乱しているというよりなにか秩序をもって繰り広げられている。それらは鉛・肉・鉛・肉と交互に並び置かれ、荒目に織にわた布か、目の荒い網のように思える。

肉片は幾条もの水平の列、すなわち横糸をなし鉛のインゴットは幾条もの垂直の縦糸の列をなしている。肉片の幾条もの横糸、鉛の幾条もの縦糸は、それぞれ発端を彼方にもち、彼方からここで交わり織りなしている。

あるいは逆に、彼方にすでにある織物の解れ糸の無数の末端としての肉片、そして別の彼方にある織物が解れて延び幾条もの糸の先端、すなわち鉛の塊りを互い違いに放置されたありさまを見ているのだろうか。しかしこの網、織物は大地を無限に被っているのではない。この織物、この網は大地に載って大地のここだけが区切り取られている。ここは彼方からの単なる連続ではない。限られた方形に区切り取られている。「ところで、私達は自然に、無意識に、重いものの上に軽いものを載せ積み重ねる。軽いものから順次、あたかも重いものへの移り変りの差が重量として定められ、それが経験的、習慣的な事柄となったかのように。そして硬いものの上に軟らかなものを積み重ねる。鉛の上に肉片を自然に置く。肉の上に鍋を置くのはなにかわけあってのことであろう。ならば鉛や肉を並べて載せる大地は軟らかいと言うべきか、硬いと言うべきか。重いと言うべきか、軽いと言うべきか。大地は重いものも軽いものも平等に受け入れるかのように見える。

レオナルド・ダヴィンチは当時、最も軽いと思われた空気の正体について「空気はたえず自分自身よりも重いものの上にとどまる」といった。また「空気は平等にとどまる」と強調して言った。そのことは大地が重いものも軽いものも受け入れ、平等化するのとは反対に、空気のような最も軽いものが他のもの上に君臨し平等化すると読むことが出来る。

ところでどうだろう。ものを置き、配置する人々には、大地がすべてを受け入れる平等的性格と、ものの上を被う空気の両方の平等性に気遣って、大地のみに楽天的に自然に無意識にものを置く習慣を警戒し、繊細に心すべきだろう。

この大地という言葉を地面と言い換え、いや地表と言い換えて想像をめぐらした場合どうだろう。藤井博は無数の鉛と肉片を大地に置いたのではなく、織物や網のように区切りとったことで大地を限定し、大地の楽天性を疑って、ものを置き配置する条件を提出した。即ち、新たな大地を条件として作り、それに地表と云う名を与えたのだ。

又、凍結した湖面を眺めていると、水の上に立ち、足元の水を打ち割っている人、なんと身の置き場も考えない危ないことをしている人がいる。
彼は割った氷片を自分の居る氷の上の一ツ所に積み集め、湖の水面を露わに拡げて自分の身の置き場をますます狭めているではないか。或いは氷の断片を凍っていない湖面に投げ入れて、それを飛び石づたいに渡り歩こうとしているかのようだ。どちらにしても、いかに小さく狭くなった断片であろうとも彼は足元わずかに残された狭い氷の板の上にふるえながら立っていなければならない。

しかし、大地、さまざまな事物を載せ、さまざまな振舞いと作用を保証する大地とは本来このようなものであろう。継ぎ目のない、断片の寄せ集めではないのか。その一枚下は水のようなところの。そこでは何事かを行うにしても、何事かを受ける対象と何事かを起す者が共に同じ氷の上に連続し安定してある、と見えた瞬間、薪を割る人と薪が共にあると見えた瞬間、その連続は割られ離れてそれぞれ別の氷の上にあると知らされ、二ツの間は揺れ単に隣り合い、接し、隔たっている。そのように私とリンゴの大地は連続しないーセザンヌとリンゴがそうであるように、セザンヌとサントヴィクトワールがそうであるように。この限定の中で何事かを起すこと、それが私達にとって第一義であり、そのために彼は何を差し置いても氷片の上の人となろうと決意し、そこに身を投げだす。

その行為は何度も繰り返されてよい。地上のあらゆる人は行為するのと同じように、行為をなぞらえ、身振りする(actとjest)。身振りは行為を純化する。とするならば、人の行いは舞うこと、舞振うこと、ダンスすることを潜在的に具え、理解している。藤井博の行ったことを舞いの人、ダンスをする人のように繰り返しレッスンし、その指示の、譜のような作品・行為の記録と写真を先の人へ、先々の人へ伝えたいものだ。この地上が、原始がそうであったように未だ定まっていないと確認するために。

2005年5月19日 (なかにし なつゆき/画家)