TEXT BY NAOYOSHI HIKOSAKA

「アート・スカトロジー論・藤井博の牛肉作品《波動1》をめぐって」 彦坂尚嘉

レンブラントの《牛肉》を連想させ、そして今日のデミアン・ハーストの《ホルマリン漬けの牛》をも連想させる……。

しかもデミアン・ハーストより圧倒的に早い時期……1970年に〈牛肉〉を使った現代美術作品です。

ということで、私は藤井さんの《波動1》という作品を、日本の現代美術史の中で独創性の高い〈超一流〉の作品であると思います。それは記録写真でしか残っていない幻の名品なのですが……。

1. スペース戸塚

藤井博さんと出会ったのは1970年の戸塚で開かれた「スペース戸塚」という展覧会で、故・榎倉康二さんや高山登さんらと開いていた自主野外展でした。ここで藤井さんは肉の線の作品を発表しています。私はこの展覧会を見ています。展覧会そのものは『美術手帖』増刊の『美術年鑑』で大きく取り上げられて注目されました。野外展とは言っても庭のようなスペースで、高山登さんの下宿のある空き地でした。木が生えていて、やや赤みを帯びた黒土がむきだしで、湿って硬くなっている。そこに榎倉さんや、高山さんといった東京芸術大学出身の作家達と羽生真さんが、もの派的な作品を展示していたのです。榎倉さんはコンクリートの上に油で染みをつくり、高山さんは穴を掘ってそこに枕木を入れていた。二人の作品の原型はここで出来上がっていたのです。

彼らの作品はオリジナルもの派(関根伸夫・小清水漸・吉田克朗)ではなくて、関根伸夫さんの影響から始まった新展開の仕事であったのです。榎倉さんからは、関根伸夫さんに対する評価を聞いたことがあります。私は1968年の関根さんが受賞した長岡現代美術館賞展の公開審査も授賞式も見ていますが、小学校一年生から日展系の洋画家に高校三年生まで師事していたという保守系のアーティストでしたから、私には関根さんの作品も納得のいくものではなくて、〈芸術であるもの〉というよりは〈芸術ではないもの〉であったのです。不思議なことですが、多くの現代美術関係者は、〈芸術ではないもの〉が芸術領域に入ってくると、興奮し熱狂します。まるで彼らは芸術が嫌いで、〈芸術ではないもの〉が心底好きであるかのようです。このことはおそらく芸術の本質を示しているように思います。ルーヴル美術館に行っても、ロンドンのナショナルギャラリーに行っても、膨大な作品の存在が見るものを圧倒するけれども、しかし80%は取るに足らないつまらない作品で〈芸術ではないもの〉なのです。しかしこの大量の〈芸術ではないもの〉が〈芸術〉と並列されることによって興奮を呼び起こす。卑近な事で言えば、レンタルヴィデオ屋に行っても、膨大なヴィデオの中の80%は、やたらにエロティックであったり、やたらに暴力的であったり、やたらにパニックなヴィデオであったりで、いわゆるB級映画なのです。これらは〈芸術ではないもの〉なのですが、こうした低俗な映画が大量に必要とされているのが現実であるのと同様に、美術の世界もまた、低俗なB級アートが必要とされ、そして事実多くの人はこうした(芸術ではないもの)が好きなのです。そして良い作品や、芸術作品は好きではないようなのです。
芸術という領域には、真性の芸術と偽の芸術が混在しているというのはゴンブリッジも言っている事で、〈芸術ではないもの〉が芸術領域に置かれると異様な反応を人々に引き起こすのです。それはジョン・ウォーターズの「ピンク・フラミンゴ」(1972年)で証明されているように、人々は下品な犬の糞に引きつけられるのです。

スペース戸塚で会った藤井さんは武蔵野美術大学出身のアーティストで、私とは初対面でありました。野外展では生肉を使って土の上に線を引いた作品がありました。今でも覚えているのですが、作品を見た後、家に上って炬燵に入って、藤井さんとも話しました。生真面目すぎるところがありましたが、良い感じの人でした。奇妙に艶やかな皮膚をしていて、情熱的な瞳を輝かせて、確信に満ちた言葉を話す面長の顔つきで、粘着的な議論を仕掛けてきて、そのくせ話は私とのあいだでは進展しないと言うか、原理的なこだわりが強くて、コミュニケーションできずに隙間とも言うべき距離を埋められなかったのです。

彼の書く文章もそうですが、哲学的な文体で、原理的な理論が精密に展開されていくのですが、私の価値観とは根本的な違和があって、その違和の入り口でお互いに足踏みしてしまう。自分のこだわる真実と原理への固執が強くて、蛸壺の穴の口から顔だけ出して議論しているような頑固な一貫性があります。

もっともそれは、藤井さん固有のスタイルではなくて、榎倉さんにも高山さんにもあったのです。彼らには、前衛的な仕事をしていながら、奇妙に現代文明そのものに後ろ向きの姿勢があって、暗くて湿っていて、螺旋状の運動をする会話で、文明的進歩を認めない農業的保守性を臭わしていて、最後は決まり文句で「彦ちゃん、解放されなくちゃあ……」という言葉で締めくくられていたのです。

藤井さんもそうなのですが、榎倉さんに一番強く、この解放への希求があったように思います。この場合、解放というのは、自然を示していました。人間の現代文明が持つ抑圧が、彼らには否定的に見えているようで、榎倉さんは水槽に熱帯魚を飼いながら、生えてくる藻を、掃除せずに繁茂させて、それを眺めていたと聞いています。こういう、人工性をあざ笑うような自然性に、彼らは固着していたのです。東京画廊での最初の榎倉康二個展の時は、生のキャンヴァスに直接油をしみ込ませた作品が展示されていて、私は驚いて「榎倉さん、これでは酸化していく油でキャンヴァスがボロボロになるよ……」と言ったのですが、「良いじゃない、ボロボロになったって……」と言い返されました。百号の大きさで六十万円くらいで売っていましたから、実際には買ったお客さんから文句が出て、作品は水性絵具で作られるように変更されるのですが、榎倉作品の本当の魅力は、あくまでも油を使用した作品でした。こういう「ボロボロになったって良いじゃないか」という感覚が、東京芸術大学というアカデミズムの場所から出てくることが不思議で、そのルーツを探るべく、電話取材をしたことがあります。某氏の意見によると、榎倉さんの大学時代の恩師が山口薫で、彼の中に作品が壊れて自然に戻っていくことを肯定する思想があったというのです。それが事実かどうか確認はしていませんが、榎倉さんが固執した解放というのは、自然への回帰を示していました。この辺の自然への愛が、榎倉さんをして山梨県・白州の野外展への傾斜を生んだのだろうと思います。白州の野外展へと向かう原型が、この戸塚での展示にはあったのです。白州の作品も、多くは風化してゴミになり、廃墟になっていったようですが、こういう状態を愛する気持ちが榎倉さんには潜在していたようなのです。しかし私から見ると、自然というのは至高のものではなくて、たかだか〈6流〉に過ぎないのです。自然というのは、自分という主体性を無にして眺めればきれいに見えるものですが、自分の主体を立ち上げて見つめれば、見るべきもののない空虚に過ぎません。この辺の価値観の違いが、私と藤井さんとの議論の平行線を生んだのです。

1970年当時は学生運動が沈滞化に向かっている時期で、多摩美術大学のバリケードや美術家共闘会議(美共闘)の運動に関わっていた私自体は、敗北状況に追い落とされていました。多くの友人は、自分の穴蔵に自閉していった。私は公然性の維持を主張して、ただ一人で、画廊のオープニングに出て歩いていた。美共闘の誰も、誘ってもついてこなかったのです。堀浩哉も、石内都も、宮本隆司も、山中信夫も、刀根康尚も、一緒には歩いてはくれなかった。だから一人で歩いていました。私の顔がそんなに売れていたわけではないけれども、「李禹煥批判」という80枚の文章を書いていて、それなりに話題になっていたので知っている人もいて、「何で来るのだ」という冷たい眼差しを向けられましたが、ひるむことなく入って、孤独に立ちつくしていく、そういうことを繰り返していた。敷居を越えていくというのが、今に至るまでの私のやり方です。今の言葉でいえば〈脱領土化〉です。そういう意味では、当時から私は孤立していた。多くの人に嫌われていたと言っても良い。私の歩く場所というものが、越境した外部だったからです。他人からは部外者で、目つきが悪いとずいぶん言われました。常識はずれの嫌なヤツ、危ないヤツ、ファッションがなってないヤツ、男らしくないヤツ、そういう批判を浴びせられ、そしていつも差別する眼の中を黙々と歩いていました。そういう実践の延長として、世田谷の三宿の自宅から横浜を超えて戸塚の野外展を見に行ったのです。炬燵に入って話していて、藤井さんが私を差別したわけではないですが、しかし彼には居る場所があって、私には居場所がないという、そういう距離はあった。定住者と流浪者の違いです。そういう意味で藤井さんは農業的なアーティストであって、執拗に同じ場所を耕すという〈再領土化〉のアーティストであったように思います。蛸壺に入ったまま真実を抱いて出ないことを頑なに決めている相手の作品であったように見えたのです。最初から自分の純粋性と真実を守ることを至上にしている作家は、確かに立派ではあるのですが、清濁併せ呑む社会性がなくて、そういう人と話しても、私のような不純な人間とは相性が悪くて、実りがない。言い換えると藤井さんには、あくまでも守り抜こうとする価値観があったと言えます。

作品も土の上の生肉というもので、これも眼に楽しいというものではないし、生肉が土の上にあるというだけで、食べる肉が土で汚されているという不快感があって、なんとも言えない嫌な感じがしたのですが、藤井さんにとっては、自分の生理性にまで下降してとらえる真実があったように思える作品です。

藤井さんの生まれ育った場所には屠殺場があって、殺される牛の声を聞いて育ったというのです。そのせいか、藤井さんは腸が弱くて、おまけに肉は食べられないと聞いています。そういう殺されていく牛への哀れさに共感するやさしい藤井さんの精神の動きが、生肉の作品を作らせたのでありましょうか? 殺される牛の断末魔の声を、日常生活の中で繰り返し聞いて育った少年が、いかなる価値と真実と純粋さに対してこだわって、立てこもったのか、私には興味があります。

殺される牛の声というと、1984年に登場したザ・スミスというモリッシー(ヴォーカル)とジョニー・マー(ギター)のイギリスの二人組のバンドを思い出します。セカンド・アルバムなのですが、最後の十曲目が冒頭から牛の鳴き声が繰り返し流れて、モリッシーというホモの歌手がモリッシー節ともいえるフニャフニャ・ヴォイスで「牛をころすのは殺人だ(MEAT IS MURDER)」と非難する歌詞を、お尻をくねらせながら繰り返し歌うのです。良い曲です。アルバムのタイトルも『MEAT IS MURDER』で、1985年全英第一位を記録しています。家畜を殺す事を拒否するアニマリズムという運動が欧米にあります。かなり過激なもので、実験動物の扱いや存在に抗議して企業の中に進入して破壊するなどの行動をしている。私の知人のアメリカ人にもアニマリストはいて、彼は肉食の拒否はもちろん、牛乳すらも飲むことを拒む。藤井さんの中にあるこの社会に対する違和感が、アニマリズムの人々のような形で結実はしなかったにしろ、この牛や豚や鶏を殺し続けることで成立している人間社会に対する拒絶を含んでいて、藤井さんは本質的に自分の蛸壺から出て、この残酷で理不尽な屠殺者である世界に参入していくことを、深いところで拒否している。こうした態度はアウトサイダー・アーティストには多く見られるものです。両性具有の少女達の物語を創作したヘンリー・ダーガーにしても、根本にあるはこの世界に対する違和と被害者の妄想であるでしょう。

2. 波動

肉を使った最初の作品は、田村画廊というところでやった《波動1》という作品だそうです。写真で見ると、これが一番良い作品だと思うのですが、残念ながら見ていません。牛肉の塊と鉛の塊とを等間隔で画廊の床に直に置いたもので、最初は一週間そのまま放置しておくつもりだったようですが、腐敗して臭いなどの問題が出てきて、途中で肉を入れ替えたと聞いています。最初の個展が牛肉だったのです。

「初めにすべてありき」という意味で、藤井博という作家にとって重要な作品で、この最初の個展の作品が頂点とも言うべき高みを持っているように見えます。スペース戸塚に展示された肉の線の方は、線という部分でリチャード・ロングの影響が見えますが、それと比較しても、この第一回個展の肉の作品は、ロングの影響もなくて、線というよりも面で、肉の塊もそのまま使われていて、鉛の固まりとの対比を含めて、藤井さんの問題意識と独創性をより鮮明に見ることができると思います。謎は、何故これが一度で終わってしまって、反復できなかったのか?ということです。なにしろ、この《波動1》という作品が、どういう経緯で出現してきたのか、それを藤井さんの昔の作品からたどることは出来ない。何しろこの作品以前の作品は隠されているからです。人間の始原には、根元的な虚偽があると言ったのはスラヴォイ・ジジェクであったと思いますが、藤井さんの作品の根元にある虚偽の姿が見えてこないのです。藤井さんはどういう嘘を、自分自身に対してついてきているのだろうか?

ある時気がついたのは、藤井さんが〈芸術〉という言葉を、決して使わないことでした。それを言ったら、お互いに電話で話すのを止めました。もしかすると榎倉さんも、高山さんも、藤井さんも、芸術というものが何であるのか? そういう基本的な問いをしないままに作品を作り続けるという形で、自分自身に根元的な嘘をつき通してきていたのかもしれない。それはもの派系の作家全員に言えるのかもしれないなと思える。作品のすべてのヴォキャブラリーが、この芸術への根元的な問いかけの回避という形で、展開していく。言い換えれば、〈芸術〉と、〈芸術でないもの〉を峻別できなくて、だから積極的には芸術に向かわなくて、その結果として芸術ではない領域に流れ至っていく。

この第一回個展の肉の作品《波動1》以前の作品が隠されていると言う性格は、なにも藤井さんだけの事ではないのですが、これ以前の幼児からの成長の中で作られた作品が、現代美術家になるときに殺されて、忘却されて、そして突然と、自分の現代美術家としての作品が作られる。こういう現象を分かりやすく示したのはジャスパー・ジョーンズで、かれは《旗》の作品を描く前に、それまでのすべての作品を焼いたのです。

すくなくとも、その肉の前にあったはずの高山さんの作品で、牛の血をドラム缶に入れて展示した作品があります。村松画廊だったはずです。これにしたって、その前の作品が分からないから、何かの模倣なのかもしれない。しかし、若くて、何が芸術かを理解しないままに始めたときの決断が示した牛の血を満々と満たしたドラム缶は、〈芸術でないもの〉だったのです。それは明確にそうであるにしても、〈芸術でないもの〉が芸術領域である画廊に運び込まれて、芸術作品として展示されたときの驚き。ちょうどインドカレーのレストランに行って、テーブルの上に、犬の糞が皿に並べられて出てきた時の驚きのようなものです。藤井さんの作品にしても芸術では無い「肉」を使うことは、アート・スカトロジーというべきものです。この「肉」が「鉛」と並置されることで、〈芸術では無いもの〉という領域が反転して、逆転している。つまり、優れた芸術として屹立している。〈超一流〉の作品になっていると私は思います。

芸術の秘密は、いつも〈芸術〉が〈芸術でないもの〉と並置されていることです。つまり区別が失われて、スカトロジー的な状態になる。すべての人間の性的な倒錯は、スカトロジーに至ると言いますが、人間の根元には、きれいであるものと、汚いものの、区別があります。それは〈芸術〉と〈芸術でないもの〉の区別へと連動している区別なのですが、この区別が失われると、カオスになります。芸術領域の中には、この区別が失われたカオスが広がっています。創造というのは、一度カオスに舞い戻って、〈芸術〉と〈芸術でないもの〉の区別が失われるところから、再度〈芸術〉と〈芸術でないもの〉の区別が組み直されて登場するために、創造の直前はカオスへの還元が行われるのです。それがアート・スカトロジーです。

膨大な数の〈芸術でないもの〉が、芸術の振りをして、偽の詐欺の芸術として登場してくるのですが、その中から奇跡が起きて、突然として真性の芸術が、とんぼ返りを打って登場する。藤井さんのこの田村画廊の作品は、そうした奇跡が生み出した、とんでもない傑作であり、名作でした。

藤井さんは出発点で、何かの影響を受けて、一挙に「超一流」の作品をつくった。時代と寝たといっても良いです。時代とセックスすることで、一挙にエクスタシーの高みに達した。

おそらく藤井さんの作品の良さは、芸術の外で考えられた思考……それは殺される屠殺場の牛の声を聞きながら育った少年の、世界への私的な違和感が、作品に内包されることによって作り出されたのだろうと思います。

実を言うと、この田村画廊の作品の質の高さを、私は深く愛している。この時期に作られて同様の作品、例えばカール・アンドレの床に撒いた針金の作品とかよりも、質的には圧倒的に高い〈超一流〉の作品であると思う。

それが生肉を使うことによって、〈芸術でないもの〉を突出させて、それこそ、食卓の上に犬の糞を置いたような違和感を生んでいるからこそ、この時代の精神として極めて先鋭であり、かつ美しい違和を生み出したと思う。しかもそれは、もの派という文脈をも突き破ってしまっている。

食べ物を芸術に使うということに対しての批判的なことは、一般には作品の耐久性がないということです。しかし石や鉄は、展覧会期間中は保つにしても、本当に作品としての十分な耐久性を持っているのかという疑問があります。実は、「もの派」の代表作は、保たなくて、残ってはいないのですね。ともあれ、今言おうとしていたことは、もの派の作品も、鉄や石を使っていても、大半は残っていないということで、作品がかなり残っている「アルテ・ポーヴェラ」などと随分と違う。グッゲンハイムのソーホー館で行われた「戦後日本の前衛展」で、もの派が話題にならなかった一つの理由が、同時期に「アルテ・ポーヴェラ」の展覧会がニューヨークで開かれていて、そちらの方はオリジナルが残っていて、もの派は再制作で、勝負にならなかったと言われています。

アルテ・ポーヴェラに限らず、この「もの派」と同じ時期の、プロセス・アートやアース・ワークの作品が、欧米では実物で残してきているものが多いのです。私は、水辺に渦巻きを作り出した作品で有名なスミッソンの回顧展をヴェニスヴィエンナーレのアメリカ館で見ましたが、もの派との共通性は大きい。たとえば鉄の箱に自然石がびっしりと入れてある作品など、硬質で良い作品でしたが、これらは残っている。あるいは今は兎(うさぎ)の作品だけが印象的になってしまっていますが、バリー・フラナガンの回顧展もヴェニス・ビエンナーレで見たことがあります。60年代の末には、もの派的な作品を早々と作っています。わが国になじみのある作品で言えば、先ほどの関根さんの前に長岡現代美術館賞を取った、革袋に砂が入っているような作品がありますが、こういうタイプの作品が保存されている。ここでも先ほどの「オリジナル作品を残さなければならない」と言うグローバルスタンダードと、日本の「作品を残そうとする意志の弱さ」の現状との落差があります。

結局は、鉄や石の作品も「牛肉」と同じように残らない。「牛肉」を使っていようが使っていまいが、残らないということでは五十歩百歩ということになるかも知れない、危うさがあるのです。

3. もの派の外部

私が学生のときは50年残る作品を作れと先生に教えられたものですが、50年単位で言えば、食べ物も「もの派」の作品も同じなのです。「牛肉」の藤井さんを排除して、「もの派」の作品はきちんと残っているのだと信じる事実誤認の上に、もの派神話と理論を組み立てるのは困るのであって……。

自然石が持ち込まれれば芸術で、生肉は芸術ではないと言うことはないわけであって、両方共に未加工な、〈芸術でないもの〉を芸術というフィールドに持ち込んでいるのですから……。

私が実物を見た「スペース戸塚」の作品は、すでに述べたように肉の線を描くように地面に置いた野外の展示であったのですが、最初は肉でできた線が35~6メートルぐらいあったそうです。設置して4、5日たつと少しずつ線が切れてきて、10日くらいたつと肉そのものは無くなってしまったといいます。ただ脂肪分が残るのか、あるいは虫が集まるためか、肉のあった場所に線はきちんと残ったそうです。その後、72年には、肉の塊を大量に買って、都内近郊のいくつかの場所でその肉を設置し、それをイヴェントという形で記録するということもやっているそうです。

藤井さんの肉の仕事《波動1》というのは非常にいい作品で、〈超一流〉です。この藤井さんの肉の作品が、全国四館を巡回した「もの派」展から削除されてしまったということがあるのです。こういったユニークな作品が「もの派」展から排除されているということが、私には逆に藤井さんに対する評価になっているわけです。実は「もの派」にくくられない部分を指し示す重要な作品だったと思うのです。だからこそ藤井さんの作品を排除することで、「もの派」が成立している。つまり藤井さんの作品は、もの派の外部を形作ったのです。

それほどに、おぞましくも美しい独創性のある作品であったのです。

(ひこさか なおよし/美術家・美術史評家)